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2026.04.23 16:00

「お金がないなら、それは夢と芸術をも手放すとき」バレエ業界に新風を吹かす男の“冷静な経営視点”


日本のバレエ界に存在する、知られざる現実をご存知でしょうか。

東京の有名バレエ団に所属するダンサーの52%が、年収100万円以下。これは、バレリィーノトレーニング&大人バレエアカデミーの代表、猪野恵司氏が指摘する衝撃的なデータ(NPO法人芸術家のくすり箱による2008年の調査)です。

多くの才能が経済的な理由で夢を諦めざるを得ないこの業界に、彼は一石を投じます。「大人専門のバレエスタジオ」という独自の切り口で、業界の構造そのものを変えようと奮闘する猪野氏。その情熱の源泉に迫ります。

「ないなら自分でつくるしかない」から生まれたスタジオ

猪野氏が運営する「大人バレエアカデミー」は、その名の通り、成人以上をメインターゲットにしたバレエスタジオです。

全国に8店舗を展開し、提供するのは踊りの「基礎」だけという特徴があります。ちまたのバレエスタジオの多くは子どもを育てることを主眼に置いています。

少子化の時代、スタジオ経営を安定させるために、仕方なく大人のクラスを設けるところが多数ある。しかし、指導者の本心は子どもの育成に向いているため、大人の生徒へのレッスンは「楽しむだけのふわっとしたもの」になりがちだと猪野氏は語ります。

「心の奥底で『私はほんとは子どもを教えたいのにな』って思いながら大人を教えてるんですよ。とするとあんまりこう身のあるものにならない」

本当にうまくなりたいと願う大人の生徒たちは、そんな環境に不満を感じやすくなります。その受け皿となるべくして生まれたのが、猪野氏のスタジオなのです。

猪野氏自身、アメリカでプロダンサーとして活動した経験を持ちます。帰国後、パーソナルトレーナーとして独立し、バレエを学ぶ人々を専門に指導する中で、日本のバレエ界が抱える根深い問題に直面しました。

生徒たちは口々に「この動きは先生から教えてもらってない」「先生の注意が何言ってるんだかわかんない」と訴えました。猪野氏がトレーニングで体の使い方を教えても、所属するスタジオのレッスンが難しすぎて実践できなかったのです。

指導者と連携しようにも、日本のバレエ界特有の「生徒を囲い込みたがる文化」と「家元制度」が阻みます。専門的な質問をすると無視されることも多々あったといいます。

「自分でトレーニングをしてせっかくよくなった感覚が出たところを試す場所というか練習する場所がどうしてもいる。もうじゃあ自分で作るしかないっていうので作ったのがこの大人バレエアカデミーなんですね」

それは、トレーナーとしての経験から生まれた、必然の帰結でした。

業界の風潮に対して抱きつつけてきた強烈な違和感

猪野氏の事業には、2つの大きな理念があります。

1つは、自分のスタジオの講師たちが「バレエで食べています」と胸を張って言える状態を作ること。そしてもう1つが、バレエ界全体にお金を循環させることです。その鍵を握るのが、趣味でバレエを習う「大人たち」の存在です。

「このバレエの世界で一番お金を自分の意思で使える層はどこかというと大人の人たちなんですよ」

しかし、業界にはバレエ界を経済的に支えているはずの大人たちを、心のどこかで見下してしまうダンサー、教師が少なくないというのです。なぜなら内部は「踊りのうまいやつが偉い」という価値観が根強くあり、それが業界を衰退させていると、猪野氏は指摘します。。

「大人たちががお金を払うことによってこのバレエ界が回っているのにもかかわらず、この大人の人たちを大事にしないっていうのがもう理解できないんですよ。にも関わらず、業界は国に対して、芸術を大事にするべきだ、とか言ってしまう。自分たちは他人を大事にしてないのに、なぜ自分たちは大事にされるべきと思っているのでしょうか」」

せっかくクラスに来てくれた大人を、わざわざバレエ嫌いにして帰してしまう。そんな業界の風潮に、猪野氏は強い憤りを感じています。

「大人たちがバレエ界を支えているんだからこそ、私は大人たちを誰よりも大事にすることをこのスタジオで表現したいのです。」

大人たちがバレエを楽しみ、上達を実感できる環境を整えること。それは、将来有望なダンサーが育つための「土壌」を豊かに耕すことでもあるのです。

夢やビジョンを実現するために必要なもの

猪野氏はもし自分が20代に戻るとしたら、「死ぬほど働きますね」と断言します。

ワークライフバランスが重視される現代は、裏を返せば、少しハードワークするだけで抜きん出ることができる時代だというのです。

「そもそも夢を追っているのにワークライフバランスって意味がわからないんですが、単純に頑張れる人間ってめちゃくちゃ重宝されるような気がするんですよ。すごく頑張っている人と、それなりにやっている人、応援したいと思うのはどっち?という話で、既に力のある上の世代を味方につけ、20代のうちに人脈や結果を築き上げれば、30代からは非常に楽になるはずです」

もちろん、それは単なるがむしゃらな長時間労働を推奨しているわけではありません。ただし、1番体力がある20代のうちに自分の限界を知る、くらいの頑張りはしておかないと30代以降にやろうとしても、それは無理な話というのです。その時には少し前にその努力をした同期の背中が見えなくなるくらいには離され、やがて追いつこうとする気すら失せるときが来ます、と猪野氏は語ります。

最後に、猪野氏は次世代を担うリーダーや経営者に向けて、力強いメッセージを送ります。

それは、「バレエに限らず専門性の高い分野に特化するのであれば、ちゃんとお金の勉強はしてください」という、極めて実践的なアドバイスです。

特にバレエ界では、芸術性を追求するあまり、経営の基本であるお金の知識を軽視する傾向があると言います。ダンサー時代の感覚で収入をすべて使ってしまい、翌年の税金が払えなくなる。そんな経営者もいるそうです。

「どんなにきれいな、すごいビジョンを持って能力があったとしても、1億円稼いで1億円全部使ってたら次の年を無事に迎えることはできません」

夢やビジョンを実現するためには、それを支える経済的な基盤が不可欠です。

「お金が尽きたときに、それを意味するのは君の夢も尽きるときです。お金がないなら、芸術も夢は諦めることになります。この世界はお金と夢を切り離せるほどファンタジーじゃないっていうことは伝えていきたいですね」

バレエへの深い愛と、業界への強い問題意識。そして、現実を見据えた冷静な経営視点。猪野恵司氏の挑戦はバレエ界に新たな風をふかしているようです。


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